ストーリーの無い映像とは何か
昨日のVJプログラム。
私は映像のプロではないけれど、定期的にVJ(ビデオジョッキー)をさせてもらえる機会をいただき、折角ならとVJプログラムを自作、そしてここ2年程アップデートし続けている。
最近になって、ストーリーの無い映像を作るって何なんだろう、とずっと考えている。
多くの人は気にもしてないだろうけど、レティナディスプレイのピクセル単位以上に人間の視覚認識は細かい、と感じる。草花を見て感動する事があるけれど、もちろん匂いだったり、触覚のせいだとも思うけれど、リアルの草花以上にディスプレイに写された草花に感動する事はない。
最近は動画の全ピクセルを100%管理出来るまでテクノロジーが発達しているけれど、だからこそピクセルが大きな壁になっている、と個人的に思っているが、そのピクセルの壁を超えるのがもしかして動画の面白さなのでは?と最近気づいたという話(小物感)。
もっとしっかり映像をピクセルの集合として見てみよう。
ピクセルをピクセルとしてみれば、それ自体は境界のはっきりしたものであって存在を感じる。映像を絵画以上のものとして見せたいのであれば問題は、ピクセルをピクセルとして見せたいのか、ピクセルの集合が作り出す対象(という概念)を見せたいのか意識する事だと気づいた。
では通常、人間は映像をピクセルの集合であるとみているのか、それは違う、と思う。では人間は映像を何だと思って見ているのか?
先週、寄生獣の映画を遅ればせながら観た。
内容は有名なのでWikiに譲るが、凄く気持ちわるかった(もちろん映画自体は面白かった。漫画の頃から大好き)。しかし、何故気持ち悪いのかなんとなく理解出来た。よく知っているモノが歪むからだな、と。
映像記憶というか、形態記憶というか、とにかく人間は目に映るものを素早く脳内にあるなにかと結びつける機能があるように思う。映像を見ているようで、脳内を見ている、というか、脳内で見た映像を再構築している、というか。
その部分に強くフォーカスしていると思われる映像作家を見つけた。
form m09 - peer pressure from Albert Omoss on Vimeo.
form n11 - objectification from Albert Omoss on Vimeo.
ピクセルをピクセルとして見よう、脳内の映像記憶を揺さぶる、が最近気になるテーマ。僕が映像から見ている事、感じている事を如何に見ている人と同じにするか。
キーワードは原色、そして誰もが認識出来るプリミティブな形を使う事、それらを如何に動画で揺さぶるか、まだまだ実験が足らないけれども、中々面白い。