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落合陽一「魔法の世紀」読了

魔法の世紀

2015年11月に発売された落合陽一氏の著作。たまたまSNSで、全資産をBitcoinで運用していると聞いてまず興味を持ちました…(Valuでその運用状況を共有してて、そちらも面白そうだったので1VA買いました)

 

> 落合陽一:1987年生、筑波大でメディア芸術を学んだ後、東京大学を短縮修了(飛び級)して博士号を取得。2015年5月より筑波大学助教、デジタルネイチャー研究室主宰。経産省よりIPA認定スーパークリエータ総務省より異能vationに選ばれた。研究論文はSIGGRAPHなどのCS分野の最難関会議・論文誌に採録された。

 

PC -> Smartphone -> HMD(VR/AR/MR)ときて、最近何となく手詰まり感を感じてた事が全て吹っ飛んだというか…メーカーズブーム勃興(2013年辺り?)の頃にアトムからビット、ビットからアトムの話がありましたが、この本はそこから更に100年くらい飛んだ感があります…笑 書籍前半はコンピューティングと芸術相互を絡めた歴史理解、そこも面白かったのですが、後半のデジタルネイチャーの思想は今後の話をしていて、より面白いなと。

 

> 20世紀は「映像の世紀」だった。「映像の世紀」とは人間に指針を合わせてメディアを設計する時代だった。


> しかし、21世紀の「魔法の世紀」では人間の感覚を超越した設計を行うことで、メディアが物質世界自体をプログラミングできるようになる。(注:メディア = プラットフォーム = キャンバス、ディスプレイ、映画、SNS


> 人間の感覚器の解像度に合わせて作られた従来のメディアの定義を、物理現象の本質に遡ることで、新しい定義へと更新させる事。それは、場と場の間に人間の感覚器の制約を介在させないメディア装置の発明とも言える。


> ここに重要な視点がある。つまり、私たちの感覚器程度の解像度にすぎない領域からコンピュータを解放することで、物質が本来持っている性質が再現可能になるということ。

 

> 人間も例外ではない。身体の構成要素である物質は、構成や素材の水準から制御されるようになり、その一方で環境側からのアクチュエーションも盛んに行われ、また人間はロボットの代わりに使用される。

 

> 我々の存在自体は、外在的にインターネットに限定され、インターネットこそが人間の総体であるともいえるかもしれない。


> そうなれば、我々は自らの感覚的、認知的性質を備えた解釈器としてコンピュータの前に立ち、コンピュータのインターフェースとして情報を感覚や感動に変換する装置になる。

 

> デザインは表層、エンジニアリングは深層の問題を解決するという時代は、そろそろ終わりつつある。

 

> 産業革命以降、私たちは表層と深層を分離して、それを人間の言葉やイメージによって繋いできた。しかし、今や表層と深層はコードによって、ダイナミックに計算で接続されるようになり、設計が担うべき最低限の機能や形についてはコンピュータの補助によって自動的に満たされるようになる。

 

> 今後は表層と深層の両方を意識的に解決することなしに、新しいプロダクトは作れない。それは表層と深層の設計が事実上不可分になるわけだから、まさに産業革命以前のクラフトマンの時代に、「ものづくり」の人々が戻るということでもある。

 

まだ30歳になったばかり、日本にもこんな凄い人がいるんだな…と。オススメです。

魔法の世紀

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